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親父の時代 〜終戦から、会社設立まで〜
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親父・善治は元々県工(兵庫県立神戸工業高校)の電気科に進学していましたが戦争中に海軍予科練に入り終戦を迎えました。終戦直後は幼い弟妹をかかえ(小学校5年生の時に祖父を亡くしていたので)、働きながら学校(大阪外国語専門学校)にも通っていました。いろいろな職業を経て、最終的には祖父がしていた職業の大工工事に落ち着いたようです。 | ||||||||||||
昭和28年には吉川木工所を設立
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木材加工を始めました。それから木工事の請負を手がけ、造作屋(建物の内部の木工事専門業者)となり、大手ゼネコン(総合請負業)の下請けばかりをやっておりました. | ||||||||||||
昭和38年,仲間2人と会社を設立
昭和42年独立,株式会社吉川工務店を設立 |
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建築現場は大阪・神戸が中心で滋賀県の栗東、和歌山の白浜、赤穂、上郡、淡路の洲本、など広範にあったようです。 |
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私と兄
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昭和50年,兄・善博と私・悟が共にゼネコンに就職しました。 昭和55年,揃って一級建築士に合格、私は昭和55年に、兄は昭和56年にそれぞれ吉川工務店に入社しました。その頃には建築現場が大阪・神戸方面から明石・加古川方面の方が多くなり、車での移動が不便な神戸から、地元の明石への社屋移転を検討するようになりました。 |
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昭和60年,現在の東山町の社屋を新築 |
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親父は30代から趣味として写真や書道をしておりましたが、やがて書道と社会的な文化活動などで多忙になり、明石に移転してからの工務店経営は実質的には私がやっておりました。 |